イラクと映画
「映画館は、人々が集まる娯楽施設なので、テロの危険にさらされている」
先日、朝のニュースでそのような内容の報道を見た。
イラクの首都、バグダッドのニュースだった。
命を危険にさらして、映画を見る人はそう多くはない。
また、自分の映画館を爆弾でふっ飛ばしたかったり、本物の惨劇の現場にしたい経営者も、そう多くはない。
よって、映画館は封鎖されているそうだ。
戦争前は、人々によって愛されたであろう空間の、その門にくくりつけられた無骨な鎖が物騒な感じがする。
しかし。
どこにでも、熱い人というのはいて、「このままではイラクの映画が死ぬ」と、立ち上がった人がいる。
彼は、人々を集め、入り口でセキュリティーチェック(一人ひとり、衣服の上から手でチェック)をし、映画を上映し続けている。
やってくる人たちは、もちろん、自分達の負っているリスクを知って、それでも観に来る。
その中に、必ず二人のお子さんを連れてくるという女性がいた。
「得るものがあるから」
と、彼女は言う。
映画を観ることで、自分も子供たちも豊かになれる。
その豊かさは、目には見えない内側からの豊かさ。
芸術が与えてくれる、素晴らしいもの。
テロの危険を負ってでも、得たいもの。
彼女の言葉に、私はつと立ち止まる。
「得るもの」について。
少なくとも、セキュリティーチェックを受けることなく映画を見ることのできる日本の私は、普段そのようなことを考えていなかった。
確かに、映画は素晴らしい。
でも、命の危険を冒して、私はそれらを必要と出来るだろうか。
二度とない子供時代を過ごしている我が子に、映画を見せてあげられるだろうか。
「得るもの」のために、リスクを負う選択をできるほどに、私の心は豊かだろうか。
あまり、自信がない。
そんな事を考えながら、テレビ画面に映し出された、一心にスクリーンを見つめる姿を眺めていた。
「彼らは、自由だ」
ふと、そう思った。
祖国が戦火に包まれ、なおも治安が回復したとはいえないバグダッドで、観たい映画を存分に観る自由もない。
でも、彼らの心は、きっと自由だ。
ちなみに、彼らの映画館では、イスラムの映画も、ハリウッドの映画も、上映されている。
個人的な、自由のイメージ。空があって、木があって、そうして
ぼうっとしていられること。
担当:ねば塾プロジェクト係 K
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